家と己の命運を賭けるという重大な役目を背負ってはるばるこの地へやって来たは良いが、迎えたのは何やらアットホームかつ和やかな雰囲気で、当主を筆頭にみんな本当に良い人たちばかりで、逆にその対応の良さに困惑する事が多かったという、ある意味では贅沢な悩みもあったが、やはり立場上、来て早々気を緩めるわけにもいかず、それなりに緊張した日々を送って数ヵ月は経とうとしていた。

そんなある日の朝、世話役の青年(そう言うと身分が低いように聞こえるが、彼は何とここの事実上の執政だったりする)が、気遣わしそうな顔をして聞いてきた。

 

「ここ最近、よく眠れているか?どうも、顔色が優れないように見えるのだが」

 

 

実を言うとここに来た時からずっと眠りが浅かった。

 

 

慣れない土地に、決して物見遊山ではない目的で訪れ、預けられた先に自分一人だけではなく一族丸ごとの命を握られている状態、というのは頭では理解していてもかなりのストレスとなる。

それを先方も承知しているからこその、分不相応なまでの待遇であるということも。

その時はすっかり板に付いてきた曖昧な笑い方で心配ありません、と答えたが相手が相手なだけにとっくに見抜かれているのだろう。

 

「…話して解決するような事であるならば、遠慮せずに何でも言うといい」

 

こちらの目だけではなく、その奥底まで見透かしてくるような眼差しが、その頃はどうしてだか苦手であった。

 

 

 

 

 

その夜も用意された褥の中で浅い眠りと覚醒を繰り返していた。

体の方は疲れていて、休息を欲しているにも関わらず、頭が冴えてしまって寝付くのに時間が掛かる。

外から虫の声一つしない静寂というのも、逆に眠れない要因となっていた。

故郷の夜はこの季節、五月蝿いほどに虫や夜行性の動物の鳴き声が聞こえていたのに、何故かこの屋敷は物音一つしない。その不気味なほどの静寂もまた、寝付きを浅くする原因になった。

ふと、その部屋の外に誰かの気配がする。

誰何の声を上げるのも億劫で、そのままにしておくと、声が掛かった。

 

「起きていらっしゃいますか」

 

その声はあの青年ではなかった。障子の方へ首を向けると誰かが部屋の外に座っているらしい影が映っている。

こんな夜更けに、誰が、何の目的でこんな所を訪れるのか。

流石に不審に思ったものの、何故か口が動いて返事をしていた。

 

「よくお休みになさっておいでではないようでしたから、ご様子を伺いに参りました」

 

どうやら入室を許可したと思われたらしく、気が付いたら枕元に気配が移動している。

障子越しにうっすらと差し込む光で、朧に輪郭が分かる程度だが、その影はどうやら老婆であるらしい。ここに仕える侍女か何かなのだろうか、にしては声に聞き覚えがない。

訝しんでいる間に、老婆の輪郭を持った影は、優しい声音を出した。

 

「若様が眠れぬ夜には、いつもこの話をこの婆にせがみましたな…宜しければ、何かお話致しましょう」

 

後々思い返してみれば、それはとても不自然な事であったろう。しかしその時は半ば以上、夢と現の境にいるかのような心持ちであったので、現実感が薄いままにお願いします、とその申し出を受け入れていた。

それでは、と老婆は情緒を込めた慣れた口調で物語りを始めた。

 

遠い昔に、どこかの国で起きた不思議な出来事。

未だ誰も知らぬ、これから起きる未来の出来事。

 

そのどちらとも言えるような、どちらとも言えないような、曖昧な世界の中に手を引かれて連れて行かれる感覚は、夢を見ているそれと変わりない。

実際、気が付いたらすっかり寝入っていたようで、目を覚ませば起床する時刻となっていた。

物語をしてくれた老婆は、寝ている間に部屋を辞したらしく、朝には姿を消していた。

久しぶりの快眠の礼を述べようにも、日中は何処で働いているのか、その老婆に出会う事もなかった。

 

 

 

 

 

それから度々、真夜中に老婆が訪れては不思議な話を枕元で語るようになった。

どの話も引き込まれるように面白い内容なのだが、気が付くと結末も聞かぬ内に眠りに落ちてしまっている。

あれだけ眠れないで辛かった夜も、今は逆に楽しみになりつつあった。

 

「ここでの暮らしに慣れてきたようだな」

 

色々と多忙のためにそう毎朝顔を合わせる事も少ない執政の青年は、来た時に比べて顔色がずっと良くなった、と笑顔を作った。まるで我が事のように喜ぶ様に、御陰様ですと応えながらも、ふと考え付いた。

彼が、あの老婆を手配してくれたのだろうか?

初めて彼女が訪れた日には既に、こちらの事情を承知している素振りであったし、その事情について気に掛けてくれたのはこの青年だけだった。

それでも――その事について何も触れずに、関係のない話だけをしてその場を離れてしまった。

彼があの老婆を遣わした証拠は何もないし、例えそうだとしても、向こうから何も言わない内に礼を言っては変な気がしたのだ。

否、理由はそれだけではない。

若しもそうだとして、もう寝付けなくて辛くはないのだと分かったら、彼はあの老婆を使いに出すことはしなくなるかもしれない。

それが、何となく厭だったのだ。

最後まで聞かずにいつも途中で眠ってしまう彼女の不思議な話を、もっと聞いていたい、そう思い始めていた。

そんな気持ちを悟られまいと、曖昧にはぐらかすような話だけをして、逃げるようにそこを離れたが、

見送る青年の眼差しがいつまでも背中に残っているような、異物感にも似た後ろめたさは暫く消えなかった。

それは初めてその青年に対して隠し事を持ったという、それだけのことだったのに。

 

 

 

 

 

 

その夜も、老婆はいつの間にか現れ、いつものように不思議な話を語りに枕元へ来た。

 

「さて、今夜はどんなお話を差し上げましょうか」

 

障子から差し込む外の薄明かりに、彼女の影が朧に浮き上がる。

陰々としたその輪郭は、異形のそれのように不定期に蠢いて見える。

褥に入るまではあんなに目が冴えていたのに、今は脳髄が睡魔に呑み込まれたかのごとく、瞼を開けていることも儘ならない。

思い切って体を起こしてみようか。完全に眠りに落ちる前に、語るその顔を見てみたい。

それは単なる思い付きだったが、顔を見たい、と思わず口に出してしまったのだろう。

 

「――それは、」

 

話がふと途切れ、やがて彼女の悲しそうな一言だけが部屋に残された。

 

 

 

 

 

――それは、どうぞお許しくださいませ。

 

 

 

 

 

彼女が来るようになって、初めて眠れぬままに朝を迎えることになった。

それから、夜の訪問はぱたりとなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

彼女の気に障る事を言ってしまったからだろうか。

今までの礼も言うことが出来ないでいたのに、更に謝ることも出来なくなってしまった。

こうなってから今更、事情を知っているであろう執政の青年に、事の次第を打ち明けた。

彼は話を聞き終えてから一言、

 

「そうか」

 

と、無表情に呟いた。

怒っている風でも、呆れている風でもなく、しかし全く何も知らなかったという様子でもない。

彼は立ち上がり声の調子を変えずに、付いてくるように、と続けた。

さっさと歩き出す彼の後を、鈍い足取りで付いていく。

 

 

 

 

 

つれてこられた先には、使われなくなって久しい筈なのに、木の蓋が不自然にずれた枯れ井戸があった。ここ最近に誰かが開け閉めをしたらしい跡が残っている。

 

「ここに彼女がいたのだよ」

 

青年の声が静かに、老婆の物語を、その結末を語り出した。

 

 

 

 

 

 

 

「彼女はさる代の上杉家の若殿様の御世話役をしていたが、ある時その若殿様が御病気に見舞われたのだ。酷い熱に魘されて、夜も眠れぬ若殿様に彼女は付き切りで看病したが、その甲斐も虚しく、その若殿様は御隠れになった――」

 

彼女の悲しみは、見ていられぬ程であったという。

 

「御世話役としての御務め以上に、その若殿様を思っていたのであろうな。その若殿様のお隠れになった一月後、この井戸の中から見付かったそうだ。実際にこの中に入ったのは、見付かるよりも前だったらしい。顔もそれと判らぬ程に崩れてしまっていたが、着ていた服の柄などから、彼女であると判明した」

 

 

ああ、それで。それで、顔を見られたくはなかったのか。

顔など疾うに無くしていたのだから――

 

 

「それ以来、眠れぬ子供の枕元に物語をしに現れる老婆がいる、という話が伝わるようになったのだ。尤も、お前は子供と言うにはが薹が立ってはいるが、見るに見兼ねたのだろうな」

 

あまり心配を掛けてはいけない、と今まで井戸を向いて話していた青年はこちらに振り向くと真面目な顔をした。

 

「この屋敷のものは皆、お前を気に掛けているのだから」

 

そう言った途端、風もないのに周囲の木々が一斉にざわめき、井戸の蓋がカタリと鳴った。

 

 

 

あまりに都合の良い演出でも、効果は覿面で――

 

 

却って眠れぬ夜になってしまったことは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸村人質時代その2。

上杉家は“みんな”仲良し。

 

2009/05