桜の花びらというものを、手にとってまじまじと観察したのは何時以来であったか。

はらはらと、無音の調べに乗って舞い散る桜の花弁が装束についたのをつまみ上げて、島左近はそんな長閑な感想を抱いた。遠目に薄紅の花は、単品で見ると意外に白い。

ふと視線を上げると、その白い花嵐のただ中にあって尚、白い装束の人が立っていた。

 

 

 

一瞬どきりとしたのは、それが桜の木の下に埋められている『誰か』がこの世を恨んであの世から現れたのかと思ったからだが、よくよく見ると上杉軍配下の山城守だった。

彼は何か思うところでもあるのか、じっと花弁を散らす桜の枝を見上げている。

声を掛けるのを躊躇ったのは、左近の主をして、『アイツは変わっている』と言わしめるその奇天烈ぶりを思い出したからだが、そう言われてもその奇行をちゃんと見たことがないので今ひとつピンと来ない。

そんなことを考えてしまったからだろうか――桜を見上げていた彼の視線が、左近のそれと出会ったのは。

「あぁ、島殿」

彼はにこりと微笑んで、わざわざこちらに向き直った。数歩近づいて来て、何か思い付いたらしくぴたりと足を止める。

嫌な予感がした。左近の嫌な予感は、忌々しいことによく当たる。

しかし彼は春のこの陽気に相応しい穏やかな笑みを湛えたまま言葉を続けた。

「少々、付き合って頂けないか?…面白いものをお見せしよう」

その単語に、深刻な顔をした主の忠告が脳内に閃いた。

 

『兼続にとって“面白いもの”が俺たちにとって“安全である”とは限らない』

 

それを踏まえて丁重にお断りを入れようとしたら、先手を打たれた。

「安心したまえ、今回は誰にとっても命の危険性はないから」

「…それって、前回にはあったし、次回にはあるかもしれない、ということですよね…?」

そう答えた時点で、左近は『今回の面白いこと』に巻き込まれることが大決定していた。

兼続は兜の緒を解いて、ゆっくりと外す。黒々とした髪が陽光に晒されてさらりと光を反射した。

男にしては柔らかい輪郭の頬は、雪国育ちらしく淡い色をしている。

特徴的な形状をした兜が一つないだけで、直江兼続という人間の印象はかなり変わることに気が付いた。

 

だからどうしたというわけでもなく、左近は黙って、兼続が脱いだ兜を丁寧に桜の下に置くのを見ていた。

しかし性分とは抑えがたいもので、突っ込まずにはいられない。

「それ、何やってんですか」

「見ていれば分かるさ。――よし、島殿、そこの前栽に隠れるんだ」

「はあ…」

二人して敷地内のあちこちに植えられた低木一つの陰に潜む。

傍から見れば何をしているのか怪しまれても仕方ないだろうが、兼続は真剣そのものといった風に、自分の兜を見ている。取り敢えず、左近もそれに倣って兜を見ていることにした。

桜の木の下にポツンと置かれた白い兜。

何かの前衛的な表現の絵画でモチーフにされそうな構図だが、生憎左近は芸術家ではなかった。桜は桜だし、兜は兜のままだ。

 

暫くその退屈な光景を眺めていると、向こうから誰かが来るのが見えた。

 

 

 

 

巨躯の割りには軽やかな足取りで、つい春風に誘われてきたかの風情でぶらぶらと歩いてくる。

黄金の鬣の如き蓬髪が、麗らかな日差しの下で輝くようだ。

前田慶次は、ある桜の木でその足を止めた。

「おう、何やってんだい」

その桜の木の根元には、兼続が置いた彼の兜がある。

慶次はそれに対して何の疑問も持たぬ様子で、桜の枝越しに降り注ぐ陽光に目を細めた。

「――成る程、こりゃあ良い場所を見つけたなぁ。俺も眠たくなってくるぜ」

彼はどっこいしょ、と兼続の兜の横に腰を下ろし、両の手を頭の後ろに遣った。そのまま昼寝でも決め込みそうな雰囲気だ。

実際、彼がウトウトし掛けた時、遠くから呼ぶ声がして、『何だ』とばかりに目を開けた。

「あ、慶次殿!そのような所にいらっしゃいましたか!」

目にも鮮やかな赤い具足の若武者――真田幸村だ。彼は慶次の元へ駆け寄ると、やや息を弾ませて人が探していた旨を告げる。それから、慶次の傍らに置かれている兼続の兜に気が付いた。

「兼続殿、」

兜を見ながら幸村は声を掛けた。

「幸村、俺は先に行ってるぜ」

立ち上がっていた慶次がひらひらと手を振ってその場を後にする。それに会釈して見送った幸村が、改めて兼続の兜に向き直った。

「あの、先程はありがとうございました。私が、お二人の力になれることがあれば良いのですが…

…この戦が終わったら、改めて礼をさせて下さい」

真剣な眼差しで、幸村は兼続の兜に語りかけている。

あたかもそこに兼続の本体でもいるかのようだ。

 

 

 

(え、ちょ、これ、マジですか?!仕込みとかではないんですよね!?)

(当たり前だ。流石に他人の行動までは操れないからな)

(アンタ他人の何を操れるんですか!)

 

 

 

左近は兼続の本体と共に、その一部始終を陰から見ていた。

『面白いものを見せる』…と兼続は言っていたが、ここまでくるとドッキリではないかという懸念が沸く。

その内、赤い陣笠を被った左近の主が、『大成功』と書かれたのぼりを背負って現れそうな気配さえする。

しかしその予想は外れた。

 

左近の主、石田三成がその場に現れたからだ。

彼はいつも通りの格好で、赤い陣笠も『大成功』ののぼりも背負っていなかった。

 

 

 

 

「お前ら何をやっているのだ」

三成の視線は幸村と兼続の兜に、8対2くらいの割合で注がれている。

「そろそろ軍議が始まるぞ」

そんなことを言うために彼ほどの人物がわざわざ来たようには見えないが、その言葉に幸村が背筋を伸ばした。

「あっ、そうでした!…ではお二方、私はこれで失礼いたします。また後ほど」

馬鹿が付くほど丁寧に頭を下げて、幸村はその場を離れた。三成や兼続が軍議に列席する前に行っておかなければ、とでも思ったのだろうか。それもあの青年らしい…と物陰に隠れたままの左近は自分もそれに参加しなければならないのを忘れて妙な感慨に耽る。

去り行く幸村の後ろを、いつまでも未練がましくその姿が見えなくなるまでずっと視線で追い続ける三成。

そのまま走って追いかけて行くかと思ったが、何とその場に留まった。

「…兼続」

三成まで兼続の兜に向かって語りかけ始めた。

「その、何だ…悪くないものだな、知遇というのも」

恥ずかしそうに兼続の兜から顔を背けているが、その先には左近と兼続(本体)が潜んでいる前栽がある。

「お前がどうしても紹介したいと言うから会ってみたが…マジでストライク、グッジョブ兼続!

あんなに真っ直ぐな目をした男がまだいたとはな。これからが楽しみだいろんな意味で…ありがとう、兼続」

時々ぼそぼそと言葉を濁しながらも、己の正直な気持ちを表に出す三成というのも中々見れないものだ。

しかし三成の行動は殆ど、己の正直な気持ちの通りなのだが。

やがて三成はふん、と鼻を鳴らして兼続の兜へ向き直った。

「き、貴様が珍しく不気味なくらいに黙っているせいでらしくもないことを言ってしまった…!

 今のは忘れろ、俺はもう忘れたからな!軍議に遅れるなよ!」

派手な色使いの羽織を翻し、三成もいなくなる。

 

 

三成が立ち去っても注意深く辺りを窺ってから、左近は漸く前栽から抜け出た。

それに続いて出てきた兼続が、桜の根元に置いた自分の兜を持ち上げて、被る。

緒を締めながら左近に話し掛けてきた。

「どうだ、中々面白いものが見れただろう」

「いやまぁ、確かに面白かったですが…良いんですか、それで」

本人ではなく、兜を見て皆が『直江兼続』を認識しているのは、何だか歪な現実だ。

しかし当の本人は至って平然としている。

「以前から何となくは感じていたのだ…たまに会話をしていても変に目線が合わないこともあってな。

 だがまぁ、心配は要らない」

兜の緒を締め終えた兼続はそう言って笑った。

その笑顔で、先程兜無しの状態で見た別人のような印象が脳裏にちらついて、左近は思わず生唾を飲み込む。

「そ、そう、ですかね?」

「ああ。島殿は違っただろう?」

「………ええ、」

 

 

 

 

 

 

 

それに返事が出来なかったのは――

やはりあの笑顔の所為ではないかと、今でも左近は思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左近と兼続を仲良くさせようプロジェクト

…が、必要以上に仲良くなってないか。これ