その戦は、小競り合いに近いごく小規模な物だった。
地方の豪族が、現在の領土を不服に思い、「かねてよりの我が領土」と因縁をつけて隣国に攻め込んだ。その攻め込まれた側の国は、豊臣家恩顧の武将が拝領した土地だった。
援軍を差し向けられたし、の書状を受け取って、石田三成はため息をついた。
「まったく、戦を行う暇があれば内政に精を出し、石高を上げる努力でもすれば良いのだ」
「まぁ、其の領土は確かに豊かな土地とも言い難いですからね…しかし由緒書きも真筆か怪しいモンでしょうに」
婉曲に同意する島左近が手にしているのが、件の由緒書きである。攻め込んだ側の言い分としては、この由緒書きがある以上、先祖代々の土地を奪われたままではいられない、といったところか。因縁も甚だしい、三成は再度ため息をつく。
「秀吉様が天下を手にされてから、私的な闘争はご法度である。そう言っても分からんアホが多いな…!」
「それで、どういった処分をお考えで?」
「秀吉様の定めた法令を破るは、それ即ち天下に弓引くも同義。相応の手段を用いるべき――そう進言する者が多い。俺も、そうするつもりだ」
「一族の処断、あたりでしょうかねえ」
左近の呟きに、三成は同意するように目を伏せた。
「そうなろうな…相手が抵抗するなら、かの北条氏と同じ目に遭うやもしれん」
所詮、数で手にした天下だ。従わないものも当然のように出てくるだろう。それを力で抑え込む。そうしなければ、天下を治めきれないのだ。
箱に納まりきれない綿を無理矢理に全て詰めては、箱が壊れる。しかし綿を全て詰めねば散らかる一方だ。そんな、徒に労を重ねるだけの繰り返しに思えてならない。
こんな事では、豊臣の世は末永く続かないのでは…
進言するための書を認めながら、三成は暗澹たる気持ちを無理に忘れようとした。
秀吉様が一代で築き上げたこの天下、恩義ある我らがしかとお守りしていけば、天下は安泰でいられるだろう。
しかし豊臣恩顧、という括りでも、一枚岩とまでは行かないのが現状だ。古くからの馴染みである筈の福島正則や加藤清正と、三成が仲の悪い事は、周知の事実である。
「…そういえば、近頃徳川の古狸が不穏な動きを見せているそうだな」
思い出したような三成の言葉に、左近が「お耳が早いですな」と頷いた。
「流石に確たる証拠をつかませてはいないようですが。忍を使って煽動紛いな事は行っているようです。…もしかすると、此度の私闘も」
「それ以上は言うな。証拠が無い以上は、追求するわけには行くまい」
立て続けに気に喰わない人間の顔を思い浮かべてしまい、三成は眉間に皺を寄せつつも、最後の花押まで書き上げた。
文箱に入れて、左近に渡す。
「秀吉様にこれを」
「今から届けさせましょうか」
「そうだな」
左近が退室するのを見送って、三成は一度立ち上がった。
ぐるりと辺りを見回して、傍に誰かの気配が無いか確かめる。念のため、天井や床下を叩き、部屋の外まで見る。
入念に誰もいない事を確かめた三成は、「よし」と頷いた。
それから数刻。
秀吉の下を辞して、そこにいたねねから「アンタ達も仕事頑張ってるね、これでも食べなよ」と何故か饅頭を貰った左近が、三成の部屋へと戻ってきた。
「殿、仕事も一段落着いたことですし、コレおねね様から頂いたんで休憩でもしませんか……」
言いながら部屋に入ったが、そこに三成はいなかった。
今回はキチンと片付けられた文机の上に、丁寧に畳まれた真っ白い紙が一通。
それだけで、左近には全てが分かった…否、分かってしまった。
「またですか殿ぉおおおおっ!」
左近の悲鳴が、主不在の部屋に響いた。
城下よりやや外れた、小さな茶屋。
普段は街道を利用する人が立ち寄って、草鞋や笠、杖といった旅道具を手に入れたり、簡単な食事も摂る事ができる施設だが、現在は経営する者が無く、荒れるに任せている。
旅装束風の格好をした三成が、似たような格好の供を一人だけ連れて、その無人のはずの茶屋を訪れた。そっと、中の様子を窺う。どうやら誰かが中にいるらしい。大人数ではなく、一人きりのようだ。
まずは二回、次いで三回。三成が戸を叩いた。
「――どうぞ」
若い男の声が中から応える。三成は辺りを見回して周囲に誰もいない事を確かめてから、連れてきた供に「外を見張っていろ」と命じて、単身で中に入った。
「やあ、待っていたよ三成――相変わらず忙しいようだね?」
「貴様も変わらないな…不気味なほどに」
灯りも点けていないために、薄暗い室内にいたのは、背の高い青年だった。
互いに顔を確認できない距離を取り、二人で対峙する位置に立って、手にしている物をそれぞれ掲げる。
「でもさ、いい加減これきりにしても良いのに…僕たち、もうそんな関係じゃなくなったじゃない」
揶揄するような青年の言葉に、相手に見えていないだろうが、三成は顔をしかめる。
「気色の悪い言い回しをするな。俺は、単に礼節を重んじているだけだ」
「ま、折角の好意なんだから受けるとするけど…だからって戦場で会っても加減なんかしないよ?」
「俺も、敵に寝返った者へ容赦する気は無い――徳川に、つくそうだな?」
「この前に、ちょっとした事があってね。僕は縁を大事にする方だからさ」
「其の口が、良く言うたものだな」
吐き捨てるかのような三成の言葉に、相手の口の端が音も無く吊り上がる。
それは楽しそうでいて、禍々しい笑み。
「三成との縁も楽しかったけど、これまでだね」
「そうだな。俺としては腐れ縁を処理できて、清々する気分だ」
「酷いなぁ…あ、そうだ」
口で言うほど酷いとも思っていなさそうな、青年の口調が少し明るくなる。
楽しい事を思いついた、そんな口調だ。
「その内にね、きっと三成のところに一人の剣客が来るよ。だから彼の事を宜しくね?」
「――そいつが、新しい縁、か。気の毒な事だな、その剣客とやらも」
「彼は将来有望なんだけど、まだ最高の死を送る段階じゃないから。もっともっと強くなってもらわないとねぇ」
その剣客を思い出したのか、身震いするように悶えつつも青年は息を吐く。
流石に一歩退いて、三成は溜息を吐いた。
「貴様、本当に趣味悪いな…縁を切って正解だ」
「ふふ…腐れ縁って切れないからこその腐れ縁なんだよ?」
「これまで、って貴様がさっき言っただろうが」
「そう。こんな関係を続けられる縁はこれまで。これからは敵同士の縁だよ」
「――そうだった。貴様にわざわざ持って来てやったのを忘れていた」
こんな関係――季節の変わり目にお中元やお歳暮を贈り合う関係は、此度で最後だ。
だからといって、特別な物を用意したわけではない。
三成は、風呂敷に包まれた箱を、相手からも遠い床に置いた。相手も同様に風呂敷に包まれた箱を三成から離れた床に置く。
「俺はコレをここに置き忘れてしまったのだ――取りに戻っても、誰かに拾われてもう手に戻らぬ」
「それで、代わりにコレを拾うんだよね?――この遊びも、結構楽しかったんだよねぇ」
すれ違いに顔を見ないように、わざと背けて三成は青年が置いた風呂敷包みを拾い上げた。
「…貴様、例によってまたハムか。俺はタオルが欲しいと何度も言っただろう」
「そういう三成こそ、油より洗剤が良いのに、って言っても結局聞いてくれなかったね」
無作法にも、相手の目の前で中身を確認し合い、悪態をつき合ってから、三成は入ってきた戸から、青年は裏の勝手口から、互いに挨拶も無く茶屋を出た。
律儀に見張りをしていた供に、三成は待たせたの一言も無く「戻るぞ」とだけ言って、城への帰路に着いた。
「殿!書置き一つでそうフラフラと出て行かないで下さいよ!そんな軽い身分では無い事は、殿もご承知でしょう?」
帰って早々、左近に怒られた。
「良いではないか、取り敢えずその日のうちに戻るのだから…そら、ハムだぞ旨いぞ」
「そんな食べ物に釣られる左近とお思いか。――しかし良いハムですな」
取り合えず、貰ったハムで買収を試みる。半分成功、半分失敗した。
「そうだろう。しかし、残念ながら、今回限りで俺がハムを土産に戻ることはもうない」
「それは良かった」
「左近、お前ハムが嫌いか?」
「いいえ。
ただ、殿がこれきりで勝手に城を抜け出る事がないのだと知って、左近は安心致しました」
たかが言葉の意味を深読みするのは、左近の悪い癖だと思う。
「………そういうつもりで言ったのではなくてな」
「おや?殿は前言を撤回なさるおつもりか?」
「あ、今度の週末に兼続ん家に出掛けるから」
「あっさりと前言撤回したよこの人!言った傍から!」
唐突な書置きのみでいなくなるのが拙いなら、前もって伝えておけば良いだろう、そう思ったがダメだった。
「俺は、ハムを土産に戻ることは無くとも、城を空けぬなどとは言っておらんからな!」
「殿が何かと仕事サボるせいで、半端なく溜まってんですよ?!どうするんですか!」
「左近、頼りにしている」
普段滅多に見せない良い顔と良い声を作り、左近に向かって親指を立てて見せた。
「ここぞとばかりに頼ってきましたね」
左近には効かなかった。
「そのための二万石だろう。高禄取りならその分、きっちりと働いて貰わんとなぁ?」
「くっ…何か言い返しづらい…!しかし、殿にしか出来ない仕事もあるんですよ?」
目線を下目使いにして、扇を広げて口元を隠し、『いやな上司オーラ』を纏って左近に圧力を掛けてみた。今度はやや効いた。
「頼りにしているからな!」
「殿!左近の言う事聞いていました?!」
もう、何も聞かなかったフリをしよう。
結局、左近に一番効くのはゴリ押しなのだから。
木曜日は、直に終わろうとしていた。