二人の人間が向かい合ったまま、もう半刻は過ぎようとしていた。

どちらの顔にも浮かぶのは、厳しい表情。

だが、互いの顔を見ようとはしていない、不思議な対峙だった。

 

 

一人がす――と指を伸ばし、空を指す。

 

「あれは」

「…青」

「そうだな」

 

そこへもう一人が空に浮かぶ雲を指す。

 

「ではあれは」

「白」

「…若干、灰色も混じっているように見える」

「だが、大まかなところは白だ」

「そうだな、そういう事にしておこう」

 

互いに合意したように頷き合う。しかし目は合わないまま。

 

「では、あの木は」

「…上か、下か?」

「両方、言ってみろ」

「上は緑、下は茶色」

「確かに…」

 

安堵したような二人。

 

 

一体何をしているのか?

それは、二人が対峙したその数刻前に遡る。

 

 

「サコーン!」

「何ですかその呼び方!」

 

すぱーん、と勢い良く襖が開かれ、部屋の中にいた島左近は手にしていた書き物(日記)を取り落とした。襖を開けた人物、石田三成は、それに全く構う事はなく部屋の中へずかずかと踏み込んできた。

 

「左近!俺は…恐ろしい話を聞いたのだ…!」

「それが恐ろしい話を聞いた人間のリアクションですか」

「まぁ良い。お前にも聞かせてやろう。そして恐怖を思い知れ」

「何ていうか、言葉の用法を間違えていませんか?」

「間違っているものか。さぁ語るぞ!」

「(テンションがウザい…)分かりました、語ったらご自分の部屋に戻ってくださいね」

 

どっかりと座り込む三成に、相変わらず人の話を聞かないなこの人…と思いつつ、左近は居住まいを正した。

三成は、一つ咳払いをして、おもむろに語り始めた――

 

「これは、俺の友人が言っていたのだが…」

「あぁ、直江殿ですかっていだあぁっ!」

さぁぁあこぉぉおん…!(重低音)

 貴様…!人の話を腰からバッキリ折るな!」

「…い、今…左近の体が腰からバッキリ折れそうでしたよ…?」

 

どこから出したのか、巨大な鉄扇を左近に向かってフルスイングした三成は、裾を払ってもう一度座り直す。左近もわき腹辺りをさすりつつ、座り直す。最近、平時でも甲冑を着けている事が多い左近。今回は図らずもそれが効を奏したようだ。

 

「ふん、まぁその友人が言っていたのだがな。我らは同じものを見ていても、それを完全に同一のものとして認識している証拠は存在しないと、そういった内容の話を聞いたのだよ」

 

一連の騒ぎで、興が殺がれてしまったらしい三成は、いつも通りのやる気が無い声で簡単に纏めてしまった。

 

「露骨に適当な語りで締めましたね…」

「黙れ。…だが、恐ろしい話だと思わんか?」

「え、えぇまぁ…そうですね。普段はそんな事、思い付きもしませんからね」

「そうだろう。現に我らは今、同じ部屋の中にいるというのに、全く同じ光景は見れないのだからな」

「そう言われると、その通りなんでしょうけどねぇ…自分の『当たり前』が崩れそうな話ですな」

「そういう話をしているのだ。これで何とも思わないほうが変だろう」

「…殿のご友人も、よく思い付きましたな」

「あいつはそういう良く分からん理屈が三度の飯より好きなのだ……そこが良いのだが」

「――はぁ…

あ、そういえば殿。立花殿がそろそろお見えになるのでは?」

「そうだった!誾千代!」

 

さり気なく惚気ようとした三成を、左近は体よく部屋から追い出した。

 

 

三成がいなくなった部屋で、左近は日記の続きを書き始めた。

『最近、殿が本気で分からない…』

左近の日記に頻出するこの言葉を、今日の日記は5回も使う事になる。

 

 

 

立花誾千代は、通された部屋で座って庭を見ていた。

天下が治まるようになってからは、こうして部屋から庭を眺める時間が増えたように思う。物事の風流を解する心を持つ必要など無い、と昔は考えていた誾千代だったが、今はただ木から落ちる葉の動きさえも愛おしいと感じる事がある。

これが戦の無い世の中――誾千代は彼女の中を過ぎ去ったもの、これから来るだろうものに思いを馳せ、庭に向けていた目を僅かに伏せた。

部屋の外に控えていた小姓が、三成の来訪を告げる。座したまま、誾千代はそれに通すよう告げた。

入ってきた三成に、誾千代は何も言わず手をつき頭を垂れる。

 

「立花誾千代、何だその真似は」

「――立花は礼儀を知らぬと言われたくは無い。貴様は一応、仮にも冶武少輔なのだから」

 

対面する位置に座った三成に、誾千代は態度を普段の調子に戻した。

 

「誰が見ているわけでもあるまい。俺は、…その、お前の真っ直ぐな気性が、あー何だ、こ、好ましいと…思っているのだから

 

最後の肝腎な言葉が口の中で小さく噛み砕かれて、誾千代の耳まで届かなかった。彼女は少し首を傾げる。

 

「そんな小声で言われても聞こえない。言いたい事があるならば、はっきりと言ったらどうだ」

「い、言いづらい事を何度も話させるな!」

「何度も?まだ一度しか言っていないだろう」

「もう良い!――わざわざこんな所まで、何の用事があるのだ、そう聞いたのだ。俺は」

 

ぴしゃ、と手にした扇を乱暴に閉じて、三成は話を無理矢理換える。誾千代も深く追求するつもりが無いらしく、あっさりとそれに乗ってきた。

 

「実は、用があるのは立花ではない。単に使いを頼まれただけだ」

「………そうなのか…」

「どうした?立花では不足か?」

「いいや、むしろ十分過ぎるくらいだ。それで、誰の使いで来たのだ?」

 

それこそ一城の城主である誾千代を使いに出すほどなのだから、余程の人物からの使いなのだろう、が。誰だ、そんな事をする輩は。誾千代自身が三成に会いに来てくれたわけでは無い事に落胆しつつも、場合によってはその人物をただでは済ません、と逆恨み的な報復を心にこっそりと誓い、三成は先を促す。

 

「元親から、渡して欲しいと頼まれたものがある」

「――あのロック野郎か…!」

「ろっく?…元親と立花は九州の一件以来、懇意にしている。その元親の頼みとあれば、立花に断る理由はない」

「そ、そそそそぉうなの、か…!なるほど、分かった…そうと知っていれば、爆破程度で済ませなかったのになぁ…!あの凄絶野郎!

「今日でなくとも良かったが、大阪には少し用事がある。ここを辞した後、向かうつもりだ」

 

誾千代は、そう言って傍らに用意していた箱に手を掛けた。

それを渡したら、彼女がここに留まる理由がなくなってしまう!

一瞬でその結論に達した三成は、「待て!」とそれからを考えるより先に言葉が出ていた。

 

「何だ?」

「その、持って来てくれた礼を…せねば、と思ってだな。だが、そのような用事と知らず…何にするか…」

「立花に礼など不要だ。ただ運んだだけなのだからな」

「そっそれでは俺の気が済まない!それに、客人をただで帰しては沽券に関わるのだよ!」

 

引き止めようと必死になるあまり、軽く腰を浮かして三成は言葉を強めた。その様子に、誾千代も軽く目を見開いたが、ふっと口元を綻ばせる。

 

「――中央の礼儀とやらも、難儀な事だな。では何か礼を受け取ろう」

 

特に化粧を施しているわけでもない、良く言えば健康的な顔立ちの誾千代の微笑みは、城内にいる白粉を塗り込めた女たちの笑顔よりも、三成の心に響く美しさがあった。

一瞬、腑抜けたように虚脱しかかった三成は、気をしっかり持てと己を叱咤し、顔を引き締める。

 

「それで、その前に…俺の友人の話を聞いてくれないか」

「ここに来ているのか?」

「いや、俺が、その友から聞いた話なのだが――」

 

この世界は、人によって異なる世界に見えている。完全に同じ世界を見る事は、誰にも不可能である。それでも人は、互いに同じ世界に生きていると言えるのか?

 

「…何と!」

「俺は、これは恐ろしい認識だと、思ったのだ…。俺が友と呼ぶ、親しい人間でさえも、俺と同じ世界に生きているのか分からないのだからな」

「――しかし、こうして目の前に座り、言葉を交わしている。立花は貴様の言葉を理解できる…違うな、貴様が話す言葉と立花の話す言葉が似ているから分かっているだけなのか」

「そうだ。俺たちはある程度の認識を共有する事で、擬似的に同じ世界を生きていると錯覚を起こしているだけなのかも知れないのだ…厳密には、俺と誾千代の世界は異なるのだな」

「どれほど、違っているというのだ?貴様の言い方では、立花の見えているものが、貴様には異形に映っているかのようだ」

 

いきなり振る話題にしてはややヘビーな内容なのだが、誾千代は根気強く付き合ってくれた。しかしやはり、僅かでも不快感を覚えたのだろう、その顔は少し渋い表情を浮かべている。

 

「それほど、大きくは違わないのだろう。そうでもなければ、俺たちがこうして会話を成立させる事などそれこそ不可能だ。それはきっと、ひどく主観的な話なのだ」

「……立花は、貴様と異なる世界を見ているとは思わない」

「俺も、そうであって欲しいと思う――だがもし、と思うと不安だ。確かめてみよう」

「どう、確かめるのだ」

 

誾千代の疑問に、三成は少し考え、名案を思い付いた。

 

「このやり方でどうだろう」

 

 

そして、冒頭のシーンに戻る。

 

 

 

取り敢えず、互いに見えている世界はそれほど大きく違わない、その事で合意した三成と誾千代の二人。誾千代はそこでようやく持って来ていた箱を三成の前に置いた。

 

「最後に、これが何に見えたかを言い合っておこう」

「同じものになると思うが…付き合おう」

 

受け取った三成の提案に、誾千代も頷く。

箱の中には、折り畳まれた赤い布が納められていた。取り出して広げると、幅は手の平より足りない程度、長さは3尺を幾らか超えた程度か。

それは赤い鉢巻だった。

 

「これは…はt「幸村…!」

 

見えたままを言おうとした誾千代の言葉に被って、三成の声が響いた。

 

「ゆきむら…? 真田幸村の事か?」

 

コレのドコが?誾千代の疑問は尤もだ。だが三成はそれすら耳に入っていないような口調で続ける。

 

「赤くて、鉢巻…これは幸村だ」

「落ち着け石田三成。布が人間のハズがない」

「しかし、それ以外に考えられないではないか」

 

いつの間にか鉢巻を拾い上げて、胸元にしっかりと抱き締めながら三成は迷いの無い目できっぱりと言い切る。その様子は、誾千代をして、何も言わせない迫力があった。

 

「…分かった、そうだな、それは真田幸村…なのだろう。貴様の中では」

「これは…長曾我部にも何か褒美を取らせるべきだな……三味線の撥辺りを送っておくか…」

 

 

確かに、この世界は人によって見えている内容が異なる。

聞いた当初は一割方程度しか信じていなかった誾千代だが、目の当たりにした事実のせいで、六割くらいは真実かも知れないと思い始めていた。

 

 

 

 

 

金曜日の恐怖は、幕を開いたばかりである。