ホテル陽炎

 

 

 

 

「なかなか、良い宿ではないか」

「かげろう、でござるか…」

「何かよう、目覚めたら何もない原っぱでした、みたいなオチが待ってそうじゃねえ?」

「お前それ、jokeでも笑えねェよ」

 

 

 

毛利は一目で気に入ったようだ。だが、他の三人は、ホテルの名前にどうしようもない不安を覚えていた。

無事に二泊出来るのだろうか…。歩き出す毛利の後ろを、三人は心なしか重い足取りでついて行く。

キチンと整えられた庭は雪で覆われて、その輪郭だけを白く浮かび上がらせ、まるで一服の絵画のような幻想的な風景になっているが、それも三人の足運びを軽減させるには至らない。

毛利は、傍目には分からないが、上機嫌なのは間違いないようで、一番先に玄関に到着していた。

 

「何をしておる、早く来ぬか」

「…毛利の奴、いやにhigh tensionじゃねェか?」

「どうしたのでござろうな…」

「――多分、原因はホテルの名前だろうな…」

 

日輪ぽい、とかそんな理由なのだろう、確実に。毛利の性格を、幸村や伊達よりは知っている長曾我部はそう呟いたが、幸村は振り返って「?」と頭に疑問符を浮かべ、伊達は振り返りもしなかった。

 

 

フロントでチェックインして、部屋の鍵を受け取る。

家族でご招待、という触れ込みなので一部屋だ(別部屋を取ると当然料金が発生する)。

六畳と八畳の和室が二部屋続いた構造で、窓からは手入れの行き届いた庭と、遠く山々が白の濃淡を付けて広がるのが見える。どちらの部屋も、磨かれた木の香りが漂ってくるような、丁寧な仕事のされた小奇麗な部屋だ。

 

「ほう、良い部屋であるな」

 

毛利の台詞が、その場にいる全員の感想だった。

だが、油断はまだ出来ない。荷物を降ろして早々に寛ぎモードに入る毛利を置いて、三人は部屋が幻で無いかどうか、あちこちを見たり触ったりして確かめる。

窓の外まで丹念に調べてから、彼らはようやく自分たちの荷物を降ろした。

 

「…ちょかべ殿、昼は如何しますか」

「…あ~、どっかにメシ屋あるか、見て来るか」

 

移動中も、道中にそれらしい店が無いか、それとなく見ていたのだが、通った道には食事処は見付からなかった。ホテル近辺にコンビにでも何でも、食料を売っている場所があるはずである。幸村と長曾我部は手荷物と上着を手にした。

 

「っつーワケで、俺らはちょっくら出掛けて来るわ」

「…用を済ませたら、すぐに戻るでござるよ」

「――ああ」

「ふん…」

 

長曾我部は気が付いてないのか分からないが、幸村には、伊達と毛利の間の空気が早くも不穏な色に染まりつつあるのが見て取れた。

二人きりにして、大丈夫なのだろうか…不安だ。帰ってきたらどちらか一方が消えているかもしれない。

 

「ちょかべ殿、早く行きましょう!」

「あ、オイ転ぶなよ幸村っ」

 

ふと想像したことがいやに現実味を帯びた映像になって脳裏に浮かんだので、それを振り切るように幸村は走り出す。呑気な声を出す長曾我部はゆっくりと幸村の後を追った。

 

 

 

ホテルの敷地から出て、右、左。見回しても雪景色しか見えない。

 

「…コンビニの一つくらい、あってもいいと思わねーか?」

「そうでござるな…」

 

それぞれ、くしゃみを一つして、ホテルに戻る。

 

 

 

タダで泊まれる宿には何らかの理由があると相場が決まっている。ましてや景品で当てた宿泊券ならばなおさらだ。その理由を幸村と長曾我部は知ることになる。

 

 

 

レストランの一つも建物の中に入っているだろう、という長曾我部の言葉に従って、二人は総合案内にやって来た。しかし、お手頃価格で営業している軽食の店は殆どが利用できそうも無かった。

店舗入れ替えのために改装中、と書いてあるのだ。

実際に行ってみないと分からないでござるよ、と主張した幸村を信じて、二人は一縷の望みを掛けて行ってみたが、看板に偽りなしだった。改装中、と書かれたそれを前に、男二人は立ち尽くす。

 

「……ちょかべ殿、如何致しましょうか」

「どーする、ってよお…マジかよ」

 

言いながら、ぐるりと回ってみるが、その階には他に気軽にランチをやってくれている親切なレストランはなかった。空腹に加えて、空しさも胸にこみ上げる。二人はエレベーターホールの前に戻っていた。

 

「…ルームサービスって、どうなってんだろうな?」

「…気になりますな」

「ところでよ、幸村。俺たちの部屋何階だったか、覚えてるか?」

「2階より上であったと記憶しているでござるよ」

「だよなあ!…で、何号室だ?」

「…確か、5とか付いていたような気が致しまする」

「――幸村、俺の想像を言って良いか?」

「奇遇でござるな。某も、今し方思い付いた事がございます」

 

 

 

俺ら、今迷ってない?

そのようでござるな!

エレベーターホールから、二人は動けなくなっていた。

 

 

 

 

 

本来、食事の時間とは、栄養を摂取するという即物的な用途の他に、食べるという原初の欲望に忠実な行為を見せる事によって、連帯意識を持ち、同じ集団の一員になったと認識する儀式の役割も担っている。接待に食事が多いのも、仲間だからこそ同じものを食べるという心理を逆手に取り、相手を懐柔し易くするという効果を狙っているのだろう。

だが、我と伊達が就いているこの卓が、そのような副次的効果を狙っているのかと問われれば、甚だ懐疑的であると言わざるを得ない。この場は明らかに、栄養摂取のみを目的とした食事の場だ。無論、我も伊達もそれ以上の目的など必要を感じてはいないが。

問題は、その後だ。食事中は、目の前の食事に集中していれば、視界の片隅にいくら不愉快な存在があったとしても、無視は出来る。しかし、食事が終われば?

残り半分となった松茸弁当を前に、我はその後に待ち受けるであろう展開を予測した。

暇を持て余した男二人が、特に何かをするでもなくただじっと部屋の中にいる…実に不毛だ。

何か、良い策は無いものか…我は残り三分の一になった松茸弁当の、薄くスライスされた松茸を箸でつまみ、しばし見つめながらこの旅の目的を思い返す。

 

スキー。

温泉。

 

この旅館にも、大浴場があり、源泉掛け流しの良質な温泉があると聞く。

もはや、これしかあるまい。ただ、重要なのは、如何にして先手を打つか、だ。

食べ終えた松茸弁当の空き箱に、蓋を被せて輪ゴムで留め、袋に戻した割り箸を挟めてから、我は準備を進める。

部屋に備え付けの浴衣を出した時点で、伊達に勘付かれた。

 

「何、やってンだよ」

「貴様には係わり合いの無い事だ」

 

持参した荷物の中から風呂に必要な物品を幾つか出し、一つにまとめる。

部屋を出る前に、我は勝利の確信とともに伊達に告げた。

 

「今より我は所用にて出掛ける故、貴様は長曾我部と真田が戻るまで留守居をしておれ」

「あ、テメエ!一人で風呂行こうってハラかよ!?」

「何だ、一緒に行きたいのか?我と二人で?」

 

迷惑そうな表情を作った我が言葉に、心底嫌そうな顔をして、伊達は首を横に振った。仮に行きたいと申し出た所で、断る心積もりだ。事が順調に進む、全て我の計算どおり。

 

「この部屋の鍵は一つ…貴様に預けるという事は、どういう事か分かっていような?貴様を呼び出す携帯など、我は持たぬと知れ」

「知った事かよ…!ケータイぐれェ持って行け!――Slip by the step on a soap!」

 

伊達が吐く呪詛の言葉を背に、我は部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

空腹に加えて、ホテル内で遭難したという情けない事実が、幸村と長曾我部を打ちのめしていた。

部屋にいるだろう二人を呼び出そうと携帯を何度か開くが、空きっ腹にはキツい精神ダメージ甚大な言葉を漏れなく頂ける事が容易に想像付き、それでいて助けてくれるかどうかも不確かなため、最後の操作を躊躇してしまう。

 

「ちょかべ殿、しかし、今は危機でござる…!恥を耐え忍び、ここは救助を…っ!」

「だけどよ…今アイツらに貸し作っちまったら、この旅行中と言わず、帰った後も何されるか分かんねーぞ?そんなリスク負ってまで助けを求められる相手か?!」

「――っ…!しかし、ちょかべ殿!このままでは埒が明きませぬ!」

「冷静になれよ、幸村!」

 

 

………。

 

 

本人たちにとっては、緊迫した遣り取りが交わされ、しばしの沈黙が流れる。

血糖値の低下によって立ち眩みを起こした二人は、これは本格的にマズいと、最後の頼みの綱(ただし極細)を掴むべく、携帯電話を手に取った。

 

 

 

 

 

 

Fにある大浴場は、昼過ぎの営業であった。

少々、早い時間に来てしまったらしい。我はその少しの時間を稼ぐべく、中庭が一望できるラウンジへ足を運んだ。

庭に対面するように配置されたソファが窓際に幾つか置いてあるが、他の宿泊客で殆ど埋まっていた。他所へ移ろうとすると、声が掛かる。

 

「こちら、あいておりますよ」

 

見れば確かに一人分の空席がある。それを勧めてきたのは一人の―― ?

男とも女ともつかない中性的な美貌に、穏やかな微笑を湛え、その人物は真っ直ぐ我を見ていた。

それを断るのも吝かでない。我はその人物の隣に腰を下ろした。

我の手荷物を見て、「おんせんですか」と尋ねられた。言葉の響きが柔らかい所為なのか、耳に入るその人物の言葉は頭の中に何故か平仮名で入力される。それを漢字変換して、我はその言葉の意味を「温泉ですか」と読み取った。

 

「そうだ」

「こちらのゆは、うちみにききます」

 

内見に聞きます?…否、打ち身に効きます、か。

 

「成る程…」

 

今までに無い類の人物だ。その身に纏う空気も、生身の人間よりは仏像か神像に対峙した時に感じるそれに近い。…もしや、ここの温泉の神か、何かか?

 

「ここへは、とうじでしょうか?」

「湯治ではない、知り合いがここの宿泊券を手に入れた故…」

「なるほど、それではかんこうですね」

「そうなるな」

「ここはうつくしいばしょ。ぞくせにつかれたみをやすめるのにふさわしいところですよ」

 

その人物の言葉からは、この地に対する誇りと、自負が見て取れた。我も目を窓の外へ向けて、日輪の光が降り注ぐ青い空の下、寸分の隙も無く手入れされた白い庭が輝くのを眺めた。

 

「ああ、確かに美しい」

「ふふ…そうでしょう」

 

知らず出る賛辞の言葉に、その人物は我が事のように肯定した。やはりこの方はこの地の神か何かなのだろうか。

 

「こちらには、いつまで?」

「明後日まで滞在する予定だ」

「それは…」

 

その人物が口を開きかけた時、若い女の声がそれに被った。

 

「謙信さま…っ!そのような所においでだったのですか!」

「おや、どうしたのですか?」

 

謙信、と呼ばれたその人物は、振り向いて艶やかに笑う。我もついでにその方角へ目を遣ると、和装した金髪の女が息を切らせて立っていた。走ってきたのだろうか、結い上げた髪が数条顔に掛かっている。

 

「お姿が見えなくて、心配している者までおりました!何をなさっていたのですかっ?」

「こちらのきゃくじんと、はなしをしておりました。ここがおきにめしたようですよ」

 

謙信の言葉に、女はさも当然、とばかりに頷く。それから、再度、謙信に対して何か、急いているような事を言う。鷹揚な態度で、謙信は立ち上がった。

 

「たのしいひとときでした…これもなにかのえん、またおあいいたしましょう」

「機会があれば、いずれ見えるであろうな…」

 

謙信は女を伴い、何処かへ消えた。

そろそろ、大浴場の開業する頃であろう、我も立ち上がり、本来の目的地へ向かう。

 

 

 

 

 

毛利への電話が繋がらず、舌打ちと共に通話を切った長曾我部の次に、幸村が伊達に電話を掛ける。

 

『何だよ』

「伊達殿!実は――」

『部屋番号分からねェとか抜かすンじゃあねェよなァ、right?』

「うっ、あ、それは…っ!――伊達殿には全てお見通しでござるな…」

『ッたく、出て来る時にてめェらの部屋番くれェ覚えとけッてンだよ』

「面目ないでござる…」

『1059、だ。次はねェからな』

「かたじけないでござるよ!」

Ah, そういやついでだ。売店でnews paper買って来い。Japan Timesで良いぜ』

「じゃ、ぱん…でござるか」

Yes.お遣いくれェ出来ンだろ』

 

一方的にそう言って、伊達との通話が切れた。幸村はまだ伊達から何か言葉があるのを待っているかのように、しばらく通話の切れた携帯を見つめていたが、ややあってそれをポケットに戻す。長曾我部は頭の上の疑問符が見えるほど、不可解な顔をして幸村を見ていた。伊達の声が低すぎて、長曾我部には幸村の声しか聞こえなかったのだ。

 

「お前らの遣り取り聞いてっと、何かの暗号みてえだな」

「むぅ、そうでござろうか…?それより、伊達殿からお遣いを頼まれたでござる」

 

聞いているのかいないのか、幸村は生真面目な顔で長曾我部を見返した。「あぁ、ジャパンがどーのとか言ってたな」長曾我部も頷く。

 

「それで、それは売店にあるとの事。――ちょかべ殿…」

「……あァ、何も言うんじゃねぇ。…幸村――」

 

伊達に言われるまで、気が付かなかった。

長曾我部も、幸村が言うまで、考え付かなかった。

売店、という存在に。

 

「…伊達殿には、借りが出来てしまったでござるな…」

「奴にゃあ、後で俺の地酒分けてやるか…」

 

二人は、ようやくエレベーターの下へ行くボタンを押すことが出来た。

 

 

 

 

 

 

広い浴槽とサービスの良い設備に、心身共に満たされた我は、風呂上りに相応しくフルーツ牛乳を入手すべく、売店へ向かった。

が、そこに昼飯を食べに行ったはずの元親と真田を見つけ、しかも二人が買い込んでいる食料品の膨大さを発見し、そこで迂闊に声など掛ければ確実に我もそれを運ぶ手伝いをさせられるのが目に見えていたため、フルーツ牛乳を諦めざるを得ない状況になった。

しかもこの狭い店内を真田がうろついておる為、身を隠すことも出来ない…ちっ、計算してないぞ。何故そこらの食事処で済ませてこなかったのだ。

この二人がまだここにいるという事は、我らの部屋にはまだ伊達しかおらぬという事。あの広い部屋を奴が独占しているというだけで何やら腹が立ってくるものだが、そこへ我一人、のこのこ出向くのも苛立たしい。とはいえ、買い物中の二人に見付かれば我も荷物持ちだ。それは避けねばならぬ。

我は極力気配を消して、売店から可及的速やかに遠ざかった。二人が清算を終え、あの部屋まで戻る頃を見計らって姿を見せれば良い。

となると、それまでどこかでまた時間を稼がねばならぬ…それも、売店から二人が出て行くのを安全に見届けられる場所で、だ。

我は思考の代わりに首を巡らした。何か、鍵のようなものが目に留まる。

拾い上げてみると、真実、鍵であった。ホテルの部屋の鍵にしては、洒落た造り――悪く言えば装飾過剰も否めない、錠を開けるだけ以上の役割を持っていそうな、そんな鍵だ。

手にとって、仔細に眺めていると、声を掛けられた。

 

「また、おあいいたしましたね」

「――そなたは、謙信、とか申したか」

「わたくしのなを、ごぞんじでしたか」

 

相変わらず性別不詳な笑みを浮かべ、謙信がこちらへ近付いてきた。

 

「そなたの名を呼んだ者があった故…不躾であった事は詫びよう」

「そのようなことはありません。…おや、そのかぎは」

 

謙信が切れ長の目を留めたのは、我が拾い上げた鍵。

 

「これは、そなたの物であったか」

「ええ…さがしておりました。ひろってくださったのがあなたで、よかった…」

 

差し出すと、我の手に謙信の指先がそっと、触れる。精巧な氷細工のような、透き通る肌の見た目の割に、生き物の体温が感じられた。何故か、安堵する。

息詰まるほど完璧な存在も、我らと同じ血肉を供えた生き物なのだ、と。

 

「なにか、れいをいたしましょう」

「心遣いは無用、我はそのようなつもりなど無い」

「わたくしのきもちです。うけとっていただきたい」

 

謙信は懐から何かを取り出すと、鍵を持っていた我の手の上に置いた。…木の札?

 

「このばしょでならば、きっとあなたのおやくにたつでしょう」

 

謙信は、鷹揚な一礼をして、その場所を去った。本当に、あの鍵を探していたようだ。

我は手渡された木の札を見る。それは掛札で、こう記されていた。

『温泉貸し切り中』

やはり、あの御方はここの温泉の神か、何かだ。

 

 

 

 

 

 

売店で、食料品を目に付いた物から買い込んだ幸村と長曾我部は、浴衣を着た毛利が廊下を歩いているのを見掛けた。

 

「毛利殿!かような所で一体何を?」

「っつーか、その荷物と髪…風呂行って来たとかじゃねーよなぁ?」

「貴様らこそ、どこぞかで食事を済ませてきたのであろう?何だその食料の異常な量は」

「…っあ、これぁよう…まぁ色々あったんだよ」

「ふん、食事処が見付からず、彷徨った挙句に遭難でもしたか」

「何故解ったのでござるか?!」

「その程度、解らぬ我ではないわ。――遭難の相が出ておる貴様らと歩くと我までツキが落ちる、5メートルは離れよ」

「うわ、ひっでー元就ぃ!」

「酷いでござるよぉ!」

「喧しい、黙って歩けぬのか!」

 

何だかんだ言って、5メートル離れなくても怒らない毛利の後について行ったお陰で、二人は無事に部屋まで戻れた。

しかし、新聞を買い忘れていたために「買って来るまで戻って来ンな!」と、幸村は伊達に部屋から締め出され、結局、幸村がかなり遅くなった昼食を食べ始めた頃には、夕食の準備が整った頃だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

You can’t run errands properly, can you

謙信様登場。上の英文は「パシリも満足に出来ねェのかよテメェ」というような意味です。